例えばそれが詩というか。

ネット詩人、5or6。若いミュージシャンを応援したり、ラーメン食べたり、詩を書いたり。

池袋暴走事故のニュースを見た朝の事。

相手に攻撃する人は自分は大丈夫だと思っている人達。
そういう人が一番自分の立場がわかってない。
この人だったら何言っても良いよ。犯罪者だもの。
この人はもう死んでるから何言っても良いよ。死人に口なしだもの。
この人は遠くにいるから何言っても良いよ。来れないから。
この人は理解できないから何言っても良いよ。バカだから。
この人はダメ政治家だから何言っても良いよ、
社会の為だから。
相手に叱るのと攻撃するとは全然違う。相手を良くしたいから叱ると相手を痛めつけて解らせる事が一緒ではない。そこには愛があるか無いかで捉え方が違ってくる。この互いの捉え方で攻撃した人間と攻撃された人間に捩れの正当化が生まれる。互いの正当性は混じることなく進む。そこには損しかない。はっきりいう。自分の仲間、家族、関係者、手に届く場所以外に攻撃する人はただの自己満足でしか無い。ただ自分の正義を相手に見せびらかしたいだけの行為だ。それにより自分の立場を安心したいだけ。優越感に浸りたいだけだ。何故こんな風に書くかと言うと自分の体験から腹たって書いているという事ではない。そんなケツの穴が小さい人間では無い。昨日の東京地裁で開かれた初の被告人質問、池袋暴走事故、被告の発言「アクセル踏んだ記憶ない」
に対してのマスコミの書き方に疑問に感じたからだ。殆どのマスコミが被告に対して往生際の悪さと反省の色が無い事、車の所為にしている事を書き連ねて読者に被告に対する怒りを煽らせている。それにより読者は被告人に対して言葉やSNSで攻撃する。
この人には何言っても良いよ、だって犯罪者だから。被告人とは何の関係もない人達が彼の行為を否定する。その攻撃する言葉は同調社会により浸透して数多くの人達が被告人に冷刻で無慈悲で残酷で冷酷で残忍で残刻で厳酷でむごい言葉を吐き散らす。見ている人もそれが正義と思い込み一人の老人に対して悪と決めつける。ここで勘違いして欲しくないのは被告人を擁護しているではなく攻撃する言葉に対しての事だ。言葉はもっと慎重に使わなければいけない。たとえそれが悪だとしても。
その言葉を使うことによりその人がどう思うのか、どう感じるのかを考えた方がよい。きっと攻撃する人はこう思っているはずだ、この人は自分と違う。といやそうではない。同じ人間だ。今の社会は簡単に人を攻撃する人が多すぎる。もっと相手の事を思いやり、言葉の使い方を考えて発言していけばもう少しストレス無く暮らせるのになぁ。と
思った朝でした。