今まで生きてきてずっと続けているものを辞める時、それは身体的な理由か精神的理由か金銭的理由か、各それぞれだけど誰かを応援する事を辞めるというのはどういう感情なんだろうか。今まで寄り添っていたものから離れる。結婚について考えると離婚だし活動について考えると脱退、会員について考えると解約、色々あるけど、もういいかな?という瞬間は誰だってあるはず。
もういいかな?
急に俯瞰的にまとめてしまう感じ、散らかった服を綺麗に畳む感じ。机に置きっぱなしの食べたお菓子の袋をゴミ箱に捨てる感じ。学校から帰ってきて自転車のストッパーをした感じ。やりきったわけでもなく、ただ、もういいかな?と気持ちが着地する。
紙飛行機を窓から放り投げた時の期待感とすぐに回転して地面に落ちた現実的な安堵感。そうだよね。
いったい何を期待していたのかわからないまま終わってしまう一日のほんの些細な出来事で今までの事が瞬時にまとまり縮まりスーパーボールのようになって弾んで心の外に飛んでいく。
それが何回目で止まったかなんてもう見てない。
あっという間に次の場面に変わるファミコンのゲームのようにそれは確かだ。
黒板に書いた定義は画面保存するだけにあって
いつそれを見るかなんて本人すらわからない。
それは確かにあなたのものだろう。
だけどみんなのものでもあるだろう。
全てを知りたくは無いけど知らなければ間違える。
ふたまたのみちに佇むお坊さんがその分かれ目にある地蔵に念仏を唱える。
その時間の間に一つの道は商人の馬車に遮られ、残りの道を歩くお坊さんは山賊に襲われて殺される。だからといって誰が悪いわけでも無い。そのお坊さんは自分の道を行くと常に唱えていたのだから。
南無阿弥陀仏。
成仏した魂と成仏出来ない魂。
誰かを助けているという考えで誰かのストレスを与えつづけているのもどうかと思う。
そう別れ際のカップルの声がサイゼリヤの向かいの席から聞こえた。
知らんがな.
いい年こいてとんがりコーンを指につけて歩くなよ。
なんか蛙化って若者が言っていた。
それは暑い暑い灼熱の日だった。
それでも秋はやってくる。
そういえばオタマジャクシを最近見てない。
という散文詩。












